LOGIN女は、乗せた覚えがないのに助手席に座っている。
最初に気づいたのは、コンビニの駐車場だった。
午後十一時を少し回ったころ、会社員の相原雅也は缶コーヒーを買って車へ戻り、運転席のドアへ手をかけたところで動きを止めた。
助手席に誰かいる。
店内から漏れる白い光がフロントガラスを斜めに照らし、その向こうに長い髪の女が座っているのが見えた。
頭を伏せ、両手を膝の上へ置いていた。
「……何だよ」
酔っ払いでも間違えて乗り込んだのかと思った。
しかし車は施錠してある。
雅也はポケットからキーを取り出し、確かめるように解錠ボタンを押した。
軽い電子音が鳴った。
もう一度、助手席を見る。
誰もいなかった。
「疲れてんのかな」
独り言を漏らして乗り込む。
シートは空いている。
買った缶コーヒーをドリンクホルダーへ置き、エンジンをかけた。
そのときだった。
助手席のシートベルト警告灯が点いた。
「は?」
荷物は何も置いていない。
センサーの故障だろうかと思いながら手を伸ばし、助手席の座面を押す。
冷たかった。
エアコンをつけたばかりなのに、氷の上へ手を置いたような冷たさが掌から伝わった。
警告灯は消えない。
雅也は気味が悪くなり、そのまま車を発進させた。
五分ほど走ったところで、ルームミラーの端に何かが映った。
助手席に、女が座っていた。
今度ははっきり見えた。
白っぽい服。
濡れたように束になった髪。
俯いているため顔は見えない。
雅也は反射的にブレーキを踏みそうになった。
「誰だよ!」
叫びながら横を見る。
助手席には誰もいない。
前を見る。
次にルームミラーを見る勇気はなかった。
◇
「それが三日前です」
久世相談室で、相原雅也は紙コップの水を両手で持っていた。
三十六歳。都内の広告関係会社に勤めている。
見た目はどこにでもいる会社員だったが、目の下には濃い隈ができている。三日間まともに眠れていないらしい。
「そのあとも見えるんですか」
環が尋ねた。
「毎日です。運転してるときだけじゃありません。昨日なんかマンションの駐車場へ車を止めて、部屋の窓から下を見たら……助手席に座ってたんです」
「車から出てくることは?」
「今のところはありません」
「声は聞こえますか?」
「一度だけ」
雅也は水を一口飲んだ。
「昨日の夜、車を降りようとしたら、『まだ』って」
「まだ?」
「それだけです」
向かいに座る佐伯蓮がメモを取りながら尋ねた。
「最初に女を見たのは、前回お電話いただいた山道で間違いないですか?」
「はい」
「何時ごろ?」
「九時半くらいだったと思います」
「一人で?」
「友人が助手席にいました」
環が顔を上げた。
「その方には女が見えなかった?」
「見えてません。俺が急ブレーキ踏んだから、『何してんだ』って怒鳴られました」
「女性はどこに立っていました?」
「カーブの真ん中より少し左です。道路の脇じゃなく、本当に車の前に」
「服装は?」
「白っぽい服。長い髪。それくらいしか」
「顔は?」
雅也は首を振った。
「分かりません。見えそうで見えないんです」
環は少し考えた。
前回、西村康介が事故を起こしたのと同じ山道。
十四年前に田代英二が死亡した場所とも重なる。
そして田代以前から、道路上の人影については目撃談があった。
「一つ確認したいんですが」
「はい」
「その道へ行った理由は?」
雅也の動きがわずかに止まった。
ほんの一瞬だった。
それでも環は見逃さなかった。
「仕事の帰りです」
「ご友人と一緒に?」
「ええ」
「仕事仲間ですか?」
「まあ、そうです」
答えが少しずつ曖昧になる。
蓮も気づいたのか、ペンを止めた。
環は責めるような口調にはしなかった。
「相原さん。見えないものの話をするのに、見える範囲のことまで隠されると、こちらも判断を間違えます。話したくない事情なら無理にとは言いません。ただ、それが今回のことに関係している可能性は考えてください」
雅也は目を伏せた。
「……心霊スポットを見に行きました」
「やっぱり」
蓮が小さく漏らした。
環が横を見ると、蓮は口を閉じた。
「動画配信ですか?」
「違います。友人がそういう場所好きで、近くまで来たから行ってみようって」
「車から降りました?」
「はい」
「どこで?」
「古いガードレールのところです。そこから少し下へ降りられる道があって」
環の表情が変わった。
「下へ?」
「ほんの少しです。友人が、『事故車の部品が残ってるらしい』って」
「拾いましたか?」
雅也が黙った。
今度こそ、沈黙そのものが答えだった。
◇
出てきたのは、黒いプラスチック片だった。
掌に収まるほどの大きさで、端が割れて白く毛羽立っている。
「車の内装の一部だと思います」
雅也は鞄から透明な袋を取り出した。
「友人が拾って、俺の車に入れました。『記念品』って」
環は触らなかった。
「ご友人は今?」
「昨日まで家にありました。でも、先生に電話する前に捨てました」
「どこへ?」
「マンションのゴミ置き場です」
環は眉を寄せた。
「まだ回収前ですか?」
「たぶん」
「なら取ってきてください」
「えっ」
「勝手に持ち帰ったものなら、元の場所へ戻すか、少なくとも由来を確認するまでは処分しないほうがいいです」
「でも、また車に乗せるんですか?」
「袋を二重にして、トランクへ入れてください」
雅也は露骨に嫌そうな顔をした。
「先生、一緒に来てくれませんか」
「もちろん行きます」
蓮がすぐに尋ねる。
「俺も?」
「あなた、今日は暇でしょう」
「暇ですけど、そういう理由で決めないでくださいよ」
「運転をお願いできます?」
「先生の車ですか」
「はい」
「それならまあ」
雅也が少し驚いたように二人を見る。
「久世先生、運転しないんですか」
「しますよ。ただ、今日は現場を見ながら行きたいので」
蓮が横から言った。
「こういうときだけ俺が便利に使われるんです」
「ガソリン代は出します」
「そこじゃないんですけどね」
久しぶりに雅也が少し笑った。
◇
問題の山道へ向かう前に、三好真琴とも合流した。
前回の件があったため、環が改めて周辺の記録を調べてもらっていたのである。
「噂が多すぎます」
助手席で資料を広げながら、真琴が呆れたように言った。
「白い女、首のない男、追いかけてくる老人、後部座席の子供、車の屋根を叩く手。全部同じ道で起きることになってます」
運転中の蓮が笑う。
「オールスターですね」
「笑い事じゃないですよ。調べる側は地獄ですから」
「で、使えそうな話は?」
「『使えそう』って言い方が嫌なんですけど」
「ごめんなさい」
「実際の死亡事故は、前に確認したものを含めて複数あります。ただし道路に立つ女性と一致する事故が見つからない」
後部座席の環が尋ねた。
「女性の死亡事故は?」
「三十八年前に一件あります。でも場所が違います。今の道路から二キロ以上離れた旧道で、しかも歩行者ではなく同乗者です」
「名前は?」
「成瀬美和子。当時二十九歳」
真琴は資料をめくった。
「夫の運転する車が沢へ転落。夫は救助されましたが、美和子さんは車内から発見されたとあります」
「それだけ?」
「事故としては。ただ、その後が少し妙なんです」
「妙?」
「夫が半年後に引っ越しています。それから二年後、この地域へ戻ってきて同じ道で単独事故を起こしている。死亡はしていません」
蓮がバックミラー越しに真琴を見る。
「妻が死んだ場所に戻って事故?」
「そう。でも本人の証言が残ってるんです」
「何て?」
「『道路に妻が立っていた』」
車内が静かになった。
環が資料を受け取る。
「その人は今?」
「十年前に病死しています」
「子供は?」
「一人。娘がいます」
「連絡は取れますか」
「もう取りました」
真琴は少し得意そうに言った。
「そこまでやると思ってました?」
「頼りにしています」
「そういう言い方されると断りにくくなるんですよね」
「次もお願いします」
「ほら、もう次の話になってる」
◇
成瀬美和子の娘・絵里は、現在五十二歳だった。
電話越しの声は落ち着いていたが、母親の事故について尋ねると長い沈黙があった。
『どうして今さら母のことを?』
環は、現在起きていることを必要な範囲だけ説明した。
心霊現象と断定せず、過去の事故との関連を確認したいと伝える。
『道路に女の人が立っている、という話ですか』
「ご存じなんですね」
『父がずっと言っていましたから』
「お父様は、事故のあとも奥様を見ていた?」
『はい。でも……』
絵里は言いよどんだ。
『母が父を恨んでいた、という話なら違います』
「どういうことです?」
『あの事故、父はずっと自分のせいだと思っていました。雨の日だったし、速度も出していた。母から「ゆっくり走って」と言われたのに、大丈夫だって笑った。その直後だったそうです』
「そうでしたか」
『父が二年後にまた事故を起こしたときも、「美和子が立っていた」と言いました。でも私は子供ながらに、父が見たかっただけなんじゃないかと思っていました』
「見たかった?」
『母に怒ってほしかったんですよ』
環は黙った。
『父は、母が死んだあと、誰にも責められなかったんです。警察も事故だと言った。祖父母も「あなたまで死ななくてよかった」と言った。でも本人だけが自分を許せなかった。だから、母が道路に立っている、睨んでいる、俺を連れていこうとしているって……そう思いたかったんじゃないでしょうか』
「お母様は、生前どんな方でした?」
『父を道路で待ち伏せして殺すような人ではありません』
少し強い口調だった。
環は思わず微笑んだ。
「そうですね」
『すみません。母が悪霊みたいに言われるのが嫌で』
「分かります」
『ただ』
絵里の声が低くなる。
『母が亡くなったあと、父以外にも見た人はいました』
「誰が?」
『私です』
環の背筋がわずかに伸びた。
「何歳のときですか」
『十四歳でした』
「どこで?」
『事故現場とは別の場所です。家の近くのバス停』
「お母様は何を?」
『立っていました』
「話しました?」
『いいえ』
「何か持っていましたか?」
電話の向こうで、絵里が息を止めたように感じた。
『どうしてそれを聞くんですか』
「何となくです。立っているだけというのが少し気になって」
しばらくして絵里が答えた。
『赤い傘を持っていました』
◇
現場へ着いたのは午後四時を過ぎたころだった。
雅也の車は使わず、環たちは別の車で来た。
黒いプラスチック片は二重の袋に入れ、後部の荷室へ置いてある。
「この辺です」
雅也が道路脇を指した。
昼間でも薄暗い。
山肌に沿って急なカーブが続き、ガードレールの外側は急斜面になっている。少し離れたところには古い旧道が残っているが、現在は草木に覆われている。
「事故車の部品を拾ったのは?」
「あっちです」
数十メートル先。
ガードレールが新しい箇所が一つある。
環はそこへ近づいた。
「最近交換されていますね」
「俺が見た女も、この辺でした」
雅也が言う。
「道路の真ん中に立ってたんです」
環は周囲を見回した。
何かいる。
しかし、前回の田代英二とは違う。
冷たいというより、重い。
山道へ染みついた感情そのものが複数重なっているような感覚だった。
「先生」
蓮が声を落とす。
「います?」
「います。でも一人ではないです」
雅也の顔が強張る。
「何人?」
「数えられる感じではありません」
「それ、怖いやつですよね」
「怖くないとは言いません」
「先生がそう言うと余計に怖いんですよ」
環はガードレールへ手を置いた。
その瞬間。
視界が変わった。
雨。
ヘッドライト。
急ブレーキ。
悲鳴。
ガードレールへ衝突する音。
別の夜。
誰かが道路へ飛び出す。
また別の夜。
泣きながらハンドルを握る男。
そして何度も何度も、
「人がいる」
という声が重なる。
環は手を離した。
「先生!」
蓮が肩を支える。
「大丈夫です」
「またそれですか」
「本当に大丈夫です。ただ……」
環は道路を見る。
「ここは、一人の霊が事故を起こしている場所ではありません」
「じゃあ何なんです?」
「事故が事故を呼んでいます」
雅也が眉を寄せた。
「どういうことです?」
「人は事故が多い場所に理由を求めます。『女を見た』『声がした』『誰かに呼ばれた』と。それを聞いた人が次にここを通ると、何かいるんじゃないかと緊張する。暗い道では、その緊張そのものが見間違いや急操作につながる」
「じゃあ幽霊じゃない?」
「全部がそうとは言っていません」
環は斜面を見下ろした。
「実際に残っている方もいます。ただ、噂と記憶と本当の霊が混ざってしまっているんです」
真琴が言った。
「事故のたびに怪談が増えて、その怪談を知った人がまたここへ来る」
「そうです」
環は頷いた。
「そして、誰かが何かを持ち帰る」
全員の目が荷室にある袋へ向いた。
◇
プラスチック片が何の部品かは、すぐには分からなかった。
だが真琴が地元の整備工場へ画像を送り、古い車種に詳しい人物へ確認してもらうと、意外な答えが返ってきた。
「助手席側のドア内張りらしいです」
真琴が電話を切って言った。
「かなり古いタイプ。少なくとも最近の事故車じゃない」
「成瀬さんの事故車と一致します?」
「そこまでは分かりません。でも年代的には可能性がある」
雅也が青ざめた。
「俺、そんなもん三日も車に積んでたのか」
「あなたが積んだわけではありませんよ」
環が言う。
「でも捨てなかった」
「友達が面白がって……」
「責任の話をしているわけではありません。ただ、持ち帰ったことで何かが車へつながった可能性はあります」
環は袋越しに部品を見た。
触れたくない。
それでも必要だった。
袋の上から指先を当てる。
冷たさはない。
代わりに、強烈な息苦しさが胸へ入ってきた。
「……違います」
「何が?」
蓮が尋ねる。
「女の人じゃない」
環は目を閉じた。
狭い。
暗い。
ひっくり返った車。
シートベルト。
助手席。
呼吸ができない。
「これ、助手席側ですよね」
「そうです」
「事故のあと、長い間車内に残っていた」
真琴が資料をめくる。
「成瀬美和子さんは助手席で亡くなっています」
雅也が一歩下がった。
「じゃあ、やっぱりその人が」
「まだ分かりません」
環は袋から手を離した。
「ただ、この部品には強い記憶が残っています」
「戻せば終わるんですか」
「元の事故現場がここだったとは限りません」
前の事故地点は旧道側。
現在の道路とは少し離れている。
「なら、そっちへ行きましょう」
蓮が言った。
◇
旧道へ向かうには、徒歩で山へ入る必要があった。
立ち入り禁止区域ではないが、すでに道路としては使われておらず、落石も多い。
「暗くなる前に戻りたいですね」
蓮が懐中電灯を確認する。
「私も同感です」
「先生からその言葉聞けると安心します」
「夜に来たがる人の気持ちが分かりませんよ。昼間でも十分怖いのに」
「心霊番組では夜ばっかり行ってますよね」
「あれは番組側が夜を好むんです」
「ギャラのため?」
環が蓮を見る。
「生活は必要です」
「急に現実的」
真琴が後ろから笑った。
「でも久世さん、出演料の半分くらい相談室につぎ込んでるでしょう」
「半分ではありません」
「じゃあ何割?」
「今その話をする必要あります?」
そんな会話をしている間だけは、雅也の緊張も少し和らいでいた。
旧道の奥には、古いガードレールの残骸が残っていた。
事故地点を示すものはない。
花も供え物もない。
三十八年も経てば当然だった。
環が立ち止まる。
「ここです」
「分かるんですか」
「ええ」
空気が変わっている。
道路の端。
何もない場所に、一人の女性が立っていた。
赤い傘を持っている。
ただし傘は開いていない。
写真で見せてもらった成瀬美和子によく似ている。
環はゆっくり近づいた。
「成瀬さん?」
女が顔を上げる。
「……誰?」
「久世といいます」
女は雅也を見る。
その瞬間、雅也が身体を震わせた。
「見える」
「今?」
「はい」
雅也は環の後ろから動けなくなっている。
「助手席の女です」
環は女性へ戻ってきた部品を見せた。
「これは、あなたのものですか」
女は答えない。
「車から外れたもの?」
長い沈黙のあと、女が言った。
「帰れない」
「どこへ?」
「帰れない」
環は少し考えた。
「事故のあとから、ずっとここに?」
女が首を振った。
「待ってる」
「誰を?」
「迎え」
その言葉で、環は違和感を覚えた。
亡くなった夫は救助されている。
娘もいた。
ならば、何を待っている?
「誰が迎えに来るんです?」
女は答えなかった。
代わりに赤い傘を持ち上げた。
傘の柄に、小さな名前札が結びつけられている。
環は目を凝らした。
「……絵里」
娘の名前だった。
その瞬間、真琴が資料を見返した。
「久世さん。事故当時、娘さんは?」
「十四歳ではなく?」
「それは母親を見た年です。事故当時は――」
真琴が指で年齢を追う。
「十四歳じゃない。絵里さんは当時十四歳じゃなくて、九歳です」
環の中で何かがつながった。
「赤い傘は、絵里さんのものだったんですね」
女の表情が揺れた。
「迎えに行く」
「娘さんを?」
女が頷いた。
「学校」
環は息を呑んだ。
事故の日。
美和子は夫とどこかへ出かけた帰りではなかった。
娘を迎えに行く途中だったのかもしれない。
真琴がすぐに絵里へ電話する。
数分後、答えが出た。
「合ってます」
「何て?」
「事故の日、美和子さんは絵里さんを習い事へ迎えに行く途中だったそうです。父親が車を出して、二人で迎えに行く予定だった」
女がもう一度言った。
「迎えに行く」
環は胸が締めつけられた。
「絵里さんは、もう大人ですよ」
女の顔が歪む。
「待ってる」
「今は待っていません」
「待ってる」
「待っていないんです」
強く否定するつもりはなかった。
だが必要だった。
「絵里さんは五十二歳です」
女が環を見る。
「結婚して、お子さんもいるそうです」
真琴が電話越しに聞いた内容を伝える。
「あなたが迎えに行けなかったあとも、ちゃんと大人になりました」
女の目から涙が落ちた。
「一人?」
「違います。お父さんが迎えに行ったそうです」
それは真琴が今、絵里本人から聞いた話だった。
事故の連絡が来る前。
母親が来ないため、習い事の先生が自宅へ電話した。
近所にいた祖父が迎えに行った。
絵里が一人で夜道を帰ることはなかった。
「あなたが一番心配していたことは、起きなかったんです」
美和子は赤い傘を見た。
「でも」
「はい」
「待たせた」
「少しは待ったでしょうね」
環はそこを美しく言い換えなかった。
「寂しかったと思います。でも、絵里さんはあなたが来なかったことを怒っていません」
真琴がスマートフォンを差し出した。
「本人と話せます」
環は一瞬迷った。
霊と電話越しに会話させられる保証などない。
それでも、絵里は話したいと言っている。
環はスピーカーへ切り替えた。
『お母さん』
旧道に、五十二歳になった娘の声が響いた。
美和子が顔を上げる。
『本当にいるのか分からないけど、久世さんが聞いてくれてるなら言います』
女の唇が震えた。
『私、あの日、お母さんが来ないって怒ってました。先生に「もう少し待とう」って言われても、ずっと玄関見てた』
環は黙っていた。
『でも、後で全部分かったから。怒ってないよ』
美和子が赤い傘を胸元へ抱く。
『それから、その傘、ずっと探してたんだよね。私のお気に入りだったから』
女が初めて少し笑った。
『別にもう返さなくていいよ。五十二歳でその傘持って歩けないし』
真琴が思わず口元を押さえた。
環も少し笑った。
電話の向こうで絵里の声が泣き声に変わる。
『お母さん、もう迎えに来なくていいよ。今度は私、自分で帰れるから』
赤い傘が女の手から落ちた。
地面へ触れる前に消えた。
美和子もゆっくり薄れていった。
最後に口が動いた。
「よかった」
環には、そう聞こえた。
◇
「じゃあ、助手席に座っていたのは、娘さんを迎えに行こうとしてたからなんですか」
帰り道。
雅也は環の車の後部座席に座っていた。
自分の車にはまだ乗る気になれないらしい。
「たぶん、車と結びついていたんでしょうね」
「俺をどうにかしようとしてたわけじゃない?」
「少なくとも、そうは感じませんでした」
「でも道路の真ん中に立ってましたよね」
「それが美和子さんだったかどうかは、まだ分かりません」
雅也が黙る。
蓮が運転しながら聞いた。
「まだ別にいるってことですか」
「この場所で見られてきた人影全部が、同じ人だとは思いません」
「怖いことをさらっと言いますね」
「事実として分からない、と言っているだけです」
真琴が後部座席から口を挟んだ。
「少なくとも、噂の『白い女』を全部成瀬美和子さんのせいにはしないほうがいいでしょうね。実際には色んな事故や見間違いが混ざってる」
「じゃあネットの怪談は?」
「大半は検証不能です」
「夢がないなあ」
「心霊スポットの話に夢を求めないでください」
雅也が小さく笑った。
その顔には、相談室へ来たときの張りつめた感じがなくなっていた。
「先生、あの部品はどうします?」
「絵里さんが引き取ると言っています」
「えっ」
「母親が最後に乗った車のものかもしれないなら、自分で確認したいそうです」
「大丈夫なんですか」
「霊がついているから危険な物、という感じではありませんよ。ただし本当に事故車のものかは分かりません。その辺りは今後調べるそうです」
「俺、もう二度と心霊スポットから物持って帰りません」
環が彼を見る。
「行くこと自体を少し考えてください」
「はい」
「本当に?」
「……たぶん」
「その返事は信用できませんね」
蓮が笑った。
「先生、若い人相手だと急にお母さんみたいになりますね」
「誰がですか」
「今の言い方ですよ」
「余計なことを言わないで運転してください」
◇
二日後。
雅也から連絡が来た。
助手席の女は、もう現れない。
シートベルト警告灯も正常に戻った。
夜中に「まだ」と聞こえることもなくなった。
その報告を聞いた環は相談記録を閉じた。
「これで一件落着?」
蓮が言う。
「今のところは」
「また『今のところ』」
「絶対と言って外れたら困るでしょう」
「慎重なんだか怖がりなんだか」
「両方です」
環は悪びれずに答えた。
相談室の窓の外では雨が降り始めていた。
強い雨ではない。
商店街の舗装を薄く濡らし、傘を持っていなかった人たちが軒下へ駆け込んでいる。
環は机に積まれた郵便物を整理していた。
その中に、一枚の茶封筒があった。
差出人はない。
「蓮さん、これ、いつ届きました?」
「さあ。今日の郵便じゃないですか」
封を開ける。
中には写真が一枚だけ入っていた。
古びた団地。
十二階建てほどの建物を、夜に撮影したものらしい。
窓の多くは暗い。
何の変哲もない集合住宅に見える。
裏返す。
ボールペンで短い文章が書いてあった。
『この団地には十三階がありません。』
その下に、さらに一行。
『でも、母は十三階に住んでいます。』
蓮が肩越しに読んだ。
「次、これですか」
「相談依頼でしょうか」
「差出人ないですよ」
環はもう一度、写真を表へ戻した。
今度は注意深く見る。
十二階建て。
一階から順番に窓を数える。
確かに十二階しかない。
しかし、建物中央にあるエレベーター塔だけが屋上よりわずかに高く突き出していた。
その細長い窓の一つ。
十二階と屋上の間。
本来なら何もない位置に、橙色の明かりが灯っている。
そして窓の内側に、人が立っていた。
環は写真を机へ置いた。
「蓮さん」
「はい」
「この団地、調べてもらえます?」
「先生、俺、映像ディレクターなんですけど」
「真琴さんにもお願いします」
「最初からそっちに頼んでくださいよ」
「でも、あなた暇でしょう」
「またそれ言った」
環は写真から目を離さなかった。
窓の中に立つ人影は、どう見てもこちらを向いていた。
第25話 廃遊園地の観覧車だけが回っている 閉園して十二年。 電気も切られ、制御盤も撤去された観覧車が、午前二時四十分になると動き始める。 一周目、ゴンドラには誰もいない。 二周目、一人。 三周目、二人。 回るたびに子供が一人ずつ増えていき、七周目で観覧車は止まる。 そして三日前から、その七人の中に、現実に行方不明になっている七歳の少女が映っていた。 ◇「最初に申し上げておきますけど、この映像に結衣ちゃんが映っているからといって、亡くなっているとは限りません」 久世環は、相談室のモニターに映った少女から目を離さずに言った。 佐藤結衣。 七歳。 小学一年生。 三日前の午後三時半ごろ、自宅から姿を消した。 母親がほんの二十分ほど買い物へ出た間のことだった。 自宅には小学五年生の兄もいたが、二階の自室でゲームをしており、妹が外へ出たことに気づかなかったという。 防犯カメラには、自宅から一人で歩いていく結衣が映っていた。 その後、住宅地の外れで一度だけ確認されたが、そこから先の足取りは分からない。 警察と消防、地元住民が捜索を続けている。 閉園した遊園地までは、結衣の家から直線距離で三キロ近くある。 七歳の子供が一人で行けない距離ではない。 だが、なぜそこへ向かったのかは不明だった。「でも、この子ですよね」 佐伯蓮が動画を一時停止する。「家族が確認したなら」 三好真琴が頷いた。「母親は『結衣に見える』と言っています。ただ、映像が荒い。警察も本人と断定はしていません」 ゴンドラの窓越し。
第24話 死んだ犬が玄関を引っかく夜 若林家で十六年飼われていた犬のハルは、六月の終わりに死んだ。 雑種の雄だった。 柴犬よりひと回り大きく、茶色の毛に、胸元だけ白い毛が混じっていた。若いころは散歩へ連れていく人間を選ばず、リードさえ見せれば誰にでも尻尾を振ったが、十二歳を過ぎたころから長い散歩を嫌がるようになり、最後の一年は家の周りをゆっくり一周するだけで満足していた。 病気で苦しんだわけではない。 食べる量が減った。 寝ている時間が長くなった。 ある朝、家族が起きたときには、いつも使っていた居間の座布団の上で眠るように死んでいた。 家族四人で見送った。 火葬にも全員で立ち会った。「ちゃんと送れたと思ってたんです」 電話をかけてきた長男の若林颯太は、久世相談室でそう言った。 二十七歳。 都内の食品会社に勤めており、現在も両親と同居している。「ちゃんと、というのは?」 久世環が尋ねる。「もっと何かしてやればよかったとかはありますよ。最後の日、俺が残業で遅くなって、帰ったころにはもう寝てたし。でも家族みんなで火葬して、骨も拾って、写真も飾って」「後悔がないわけではないけれど、見送った実感はあった」「はい」 颯太の母・若林恵子も隣に座っている。 五十五歳。 膝の上には、ハルの写真を入れた小さなアルバム。「だから最初の晩は、空耳だと思ったんです」「玄関を引っかく音ですね」「はい」 恵子が頷く。「ハル、散歩から帰ると前足で玄関のドアを二、三回引っかく癖があったんです。外からカリカリって。私たちが鍵を開けるまで」 環は少し引
第23話 毎晩一段ずつ増える階段 長谷川由紀子の家の階段は、十三段だった。 少なくとも、二十八年間ずっとそうだった。 この家を建てた夫が亡くなったあとも、そこだけは変わらなかった。 一階の廊下から二階へ上がる、木製の直階段。途中に踊り場はなく、十三段を上がれば小さな廊下へ出る。右が夫婦の寝室、左が息子が使っていた部屋、その奥に物置がある。 見慣れすぎて、普段は段数など意識したこともない。 それなのに九日前の夜、由紀子は十四段目を踏んだ。 午前零時すぎだった。 台所の水を飲み、二階の寝室へ戻ろうとしたとき、途中で妙な違和感があった。 一、二、三。 何となく数えた。 十三。 そこで二階に着くはずだった。 ところが足の先には、もう一段あった。「……あれ?」 十四段目を上がる。 普通に二階の廊下へ出た。 眠かったのだと思った。 翌朝、改めて数えた。 十三段だった。「やっぱり寝ぼけてたのね」 そう思って終わるはずだった。 二日目の夜。 十五段。 三日目。 十六段。 それから毎晩、一段ずつ増えた。 朝になると十三段へ戻る日もあったが、六日目からは昼間も増えたままになった。 由紀子は定規まで持ち出した。 一段の高さ。 踏み板の奥行き。 一階から二階までの高さ。 どこも以前と変わらない。 それなのに数えると十八段ある。 息子へ写真を送った
第22話 眠ると、知らない町へ行く男 眠るたび、知らない町へ行く。 最初の夜、藤原慎吾は夢だと思った。 夢なのだから、それで当然だった。 目を開けると、見覚えのない商店街の真ん中に立っていた。 空は夕方だった。西の山際に太陽が沈みかけ、細い道路には長い影が伸びている。 八百屋の軒先には木箱に入った大根と白菜が並び、道路の反対側には赤い丸型ポストが立っていた。小さな電器店のガラスにはブラウン管テレビが何台も並び、店先の看板には、慎吾が子供のころですら見た記憶のない古い字体が使われている。 車は走っている。 人もいる。 ただし、何もかも古い。 昭和の町を再現した観光施設のようにも見えたが、妙に生活感があった。 洗濯物。 魚を焼く匂い。 自転車のブレーキ音。 子供を叱る母親の声。 映画のセットなら不要なものまで、すべてがそこにある。「どこだ、ここ」 慎吾はスマートフォンを探した。 ない。 財布もない。 ポケットには何も入っていない。 代わりに、自分が着ている服が違っていた。 寝る前はスウェットだった。 今は白いシャツに灰色のズボン。 靴も、いつ買ったのか分からない黒いスニーカー。「夢だな」 口にすると、少し安心した。 頬をつねった。 痛い。「夢って痛いんだっけ」 そこで目が覚めた。 ◇ 二日目。 また同じ町だった。 今度は、昨日立っていた商店街の入
第21話 葬儀に知らない女が来る 父の葬儀に来た女を、親族の誰も知らなかった。 焼香の順番を待つ列の、一番後ろに立っていた。 年齢は四十代後半から五十代くらい。黒いワンピースに真珠のネックレスという、ごく普通の喪服姿だった。 遺族席に座っていた黒田沙織が最初に気づいたのは、その女だけが遺影を見ていなかったからだ。 参列者は焼香台へ進み、遺影へ頭を下げ、それから棺のほうへ視線を向ける。 女は違った。 会場へ入ってきた瞬間から、ずっと棺だけを見ていた。 それも悲しそうにではない。 笑っていた。 口元へ、ごく薄い笑みを浮かべて。「……誰?」 隣に座っていた弟の浩二へ、沙織は声を落として尋ねた。「知らない。姉ちゃんの会社の人じゃないの」「違う」「親父の知り合いだろ」「お父さんの知り合いなら、あんたのほうが知ってるでしょう」「七十八の親父の知り合い全部把握してる息子なんかいないって」 兄妹が小声で言い合っている間にも、女の順番が来た。 焼香をする。 遺影へは、最後まで一度も目を向けなかった。 そして棺の横へ立つ。 父・黒田宗一の顔を覗き込んだ。 女の笑みが少し深くなった。 沙織は思わず立ち上がりかけた。 死者を前に笑っている。 それだけなら、泣きそうな顔がそう見えただけかもしれない。 しかし女は、棺の中の宗一へ向かって何かを囁いた。 沙織には聞こえなかった。 そのあと女は、遺族席へ歩いてきた。「ご愁傷さまでございます」
第20話 鏡の中の娘が、笑わなくなった 鏡の中の娘が笑わなくなったのは、三週間前からだった。 最初に気づいたのは母親ではない。 九歳の娘本人だった。「お母さん、私、変な顔してる?」 日曜日の朝。 洗面所で歯を磨いていた高梨美緒が、隣で化粧をしていた母の遥香にそう尋ねた。「寝起きだからじゃない?」「そうじゃなくて。鏡の私」「鏡の私?」 遥香はファンデーションを塗る手を止めた。 鏡には、母娘が並んでいる。 遥香。 美緒。 どこにも変なところはない。「普通じゃない?」「でも、私笑ってるよ」 遥香は娘を見る。 美緒は確かに笑っていた。 前歯が一本だけ少し内側へ入った、いつもの笑顔。 ところが鏡の中の美緒は、笑っていなかった。「……え?」 遥香は目を擦った。 もう一度見る。 鏡の美緒は笑っている。「ほら、笑ってるじゃない」「今はね」「見間違いよ」「昨日もだった」 遥香は軽く流した。 子供の言うことだと思った。 それから一週間。 鏡の中の美緒は、少しずつ現実の美緒と違う動きをするようになった。 髪を結ぶとき、現実の美緒が右を向いているのに鏡の美緒は正面を見ている。 顔を洗ったあと、現実の美緒がタオルで目を覆っている間だけ、鏡の美緒が母親のほうを見る。 そして笑わない。 決定的だったのは、